斉藤歯科医院 Histry

明治以前

父の姉の山内年以さんが調べてくれた資料では、齋藤家は千葉県の大網白里で代々御殿医を営んでいたそうです。

大網駅から10分程度、現在は住宅地になっています

明治時代

 江戸から明治に移る時代に結核で齋藤家の家族は死去し、後継ぎがいなくなり、その後、江沢家から当時千葉大学の医学生だった乙吉を養子に迎え、家の子にある土屋家からはなを嫁に迎えました。二人は千葉に住み、長男の圭三ははなの実家に預けられ、乙吉は明治26年頃に山武郡成東町に日東醫院という産婦人科の病院を開院し、5歳になっていた圭三も一緒に住むようななったのですが、なかなかなじめず、家の子の実家に帰っては連れ戻され、成東町では本行寺というお寺に里子のように居候していたそうです。

日東院  産婦人科

 明治42年に貞三は成東中学を卒業し、確執のあった父乙吉とは違う道を選択し、日本歯科医専に入学。同時期に乙吉が死去し、松尾の古作家のたかと結婚し長女の一家で上京、四谷区市ヶ谷町に住んだ後、卒業後は本郷の帝大医学部で歯科の勉強をし、日本橋久松町で歯科医院を開業しました。

日本橋久松町 斉藤歯科医院

大正から昭和時代

 大正12年に長男貞雄が出生するが9月に関東大地震に会い住居を焼失。

 昭和2年に、東葛飾郡葛飾町小栗原、今の船橋市本中山で歯科医院を再度開院しました。

斉藤歯科通りと呼ばれていたそうです
齋藤圭三

 貞雄は昭和16年に日本歯科医専に入学しますが、大東亜戦争が勃発し、昭和19年9月に繰り上げ卒業、母校口腔外科教室に入局しますが、12月に召集がかかり山梨県甲府連隊に陸軍2等兵として入隊、昭和20年4月海軍歯科見習尉官として軍医学校分校広島県加茂衛生学校に入校、教育期間中に8月6日広島市原爆救援隊として活動。8月15日に終戦となり、下旬に復員、父の診療所で臨床医となりました。

齋藤貞雄

昭和41年頃、新しい3階建ての診療室に移転。

 長男の俊夫は日本歯科大学、大学院卒業後、口腔外科教室に在籍。東京歯科衛生士学校と母校の講師を務めながら父の診療所を手伝い、昭和53年に船橋市西船6丁目で斉藤歯科医院を開院しました。

西船斉藤歯科医院

平成時代

 平成5年にインプラント埋入者のフォローと神戸地震で被災され東京に来られた方の治療のため、渋谷区神宮前に医療法人社団俊英会斉藤歯科医院を開設しました。

医療法人社団俊英会斉藤歯科医院

令和時代

 また、3女夫婦が令和3年8月に貞雄が診療をしていた本中山の診療所を新しくし、SUNデンタルクリニックを開設しました。

SUN デンタルクリニック

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